国語力は才能

国語力は才能だと思います。
少し前までは国語力は後天的に作られるものだと信じて疑っていませんでした。ですから、くまおさんの部下になる人には読書の課題を出したりして、国語力の向上を期待していました。

くまおさんは営業マンなので「相手に伝える」為の国語力がとても大切だと思ってます。頭で空想できてもそれを口に出して表現することが出来なければアイデアが形になることはありません。

ところが、どれだけ部下を指導したり、読書させても文章力や表現力がほぼ向上しないことに気が付きました。その後、部下だけでなくお父さんや会社の先輩にも試してみましたが、いくら読書させても表現力が一向に上がらないのです。

慶応大学の安藤教授がこんな考察を発表しています。
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/53475

音楽や芸術的なセンス、数学等が遺伝するのはなんとなくイメージできたのですが、国語に関しても遺伝的要素が大きく環境による影響はとても少ないという考察でした。

そして、この記事を読んで、妙に納得しました。

「だから、いくら読書しても文章がうまくならないのか。そして相手に対して説明する事が上手くならないのだな。」と。

くまおさんは昔は全く読書をしませんでした。
読書を開始するようになったので20歳頃からで、その後は比較的読書量は多い方だと思います。

くまおさんは昔から文章が書けました。小中学校の読書感想文は、毎回あとがきだけ読んで書き上げました。大体こんなもんだろうという事で書けてしまうのです。評価の高い読書感想文は書けませんが、平均的な文章はそれでも十分に書くことが出来ます。内容なんて知りません。

また、社会人になってからもプレゼン資料を作ったり、説明するという行為は比較的得意でした。逆に、周りの人は何故出来ないのだろうか?と不思議に思う事の方が多かったです。

だから、上記の考察が妙に腑に落ちたわけです。
いまも、この様にブログを書いていますが、くまおさんがブログで多少稼いでいると知っている友人は、くまおさんにブログの書き方や作り方を聞いてきます。でも、今のところ例外なくすべての人が脱落しました。理由は「書く事が無い」からだそうです。

くまおさんから言わせてもらえば書く事なんて無限にあります。書く事が無いわけではなく、想いを文章に変換する国語力が無いだけです。でも、この国語力が遺伝だとするならば、色々と腑に落ちます。

くまおさんには子供が3人いるのですが、10歳の長男が実に味のある文章を書きます。大人でもうなってしまう様な、時には村上春樹の様な文章を書くのです。当然村上春樹など知っているはずもありません。
なんてことない日常をきりっとって作文にするのです。例えば夕飯のレシピについて原稿用紙1枚の作文を作ってきたのですが、これが傑作です。くまおさんには書けません。とてもアンニュイ雰囲気のある面白い作品でした。

一方次男は国語が苦手なようです。スポーツやその他全般は長男よりもすべて器用にこなします。小学生になり国語の授業でたびたび分からない事があるようで質問してきます。
今思い返すと、長男の時は国語に関してこの様な質問が来ることはありませんでした。多分、特に問題なくクリアしていたのでしょう。

逆に長男はスポーツや音楽等、リズム感を要する事がとても苦手です。運動音痴、音楽音痴というレベル。次男は難なくこなします。

となると・・・出来ない人に教えても、出来ない。
孵らないたまごは孵らない。という話にやっぱりなっちゃうな~。